50年の歩み

創業期 昭和12年~昭和23年

創業者 鈴木幸三郎について

社長メッセージ

創業者・鈴木幸三郎は明治36年、愛媛県周桑郡東予町大字新町で家具製造業を営む仙吉の9人兄弟の五男として生まれた。

子供の頃から活発な男気のある性格で、独立心も人一倍旺盛だった。愛媛の小学校を卒業すると早くから養蚕技術を身につけて独立し、全国に技術指導に出かけるようになった。

当時より、自分の幸せと他人の幸せを併せて考えるような青年で、宗教活動に関心を持ち始め、「人の道教団」に入信。如何に人のために生きるかを真剣に考え続けた。養蚕の指導に西へ東へ精力的な活動をつづけた。養蚕の指導に西へ東へ精力的な活動を続けながら、伝道活動も熱心に行い、各地で教えを説いていた。そんなとき向かった門司で冨子と出会い、愛をはぐくみ結婚。二人は約一年、門司で新婚生活を送る。しかし、養蚕業がかげりを見せ始めると、二人は親しんだ門司を後に、幸三郎の姉の嫁ぎ先である大阪に新たな人生を求めて旅立った。

ベルトワックスと運命的な出会い

ベルトワックスと運命的な出会い

昭和11年、幸三郎たちが落ち着いたのは東淀川区にあった幸三郎の姉の夫がやっていたという薬工社。姉婿・徳永延之氏は昭和4‐5年頃、日本で初めて当時輸入品だったベルトワックスなるものを製造し始めた人で、満州事変から支那事変へと移る頃にはベルトワックスが輸入できなくなったため注文が大幅に増え、亀甲印のベルトワックスとして知られるまでになっており、独自の技術力が世に認められていた。二人は、そこに住み込みで働いた。

その頃は機械を動かすのに、大方のところで平ベルトが使われていた。ところが、この平ベルトは長時間回し続けると摩擦熱を起こし、スリップし機械を止めてしまうことが、しばしばあった。何とかその滑りを止められないかと徳永延之氏は考え、滑り止めの粘着材があればいいと、海の向こうドイツから技術資料を取り寄せて、大阪技術産業研究所で分析してもらい、ピッチ(松の根の固めたもの)を使ったベルトワックスを考案したということだ。これは当時として画期的な技術で、十三にあった工場は、それはそれは忙しかったそうだ。

べっとりと黒い松の根っこからとったピッチは臭いもかなりきつかったが、幸三郎たちはいやな顔ひとつせず身を粉にして働いた。

鈴木油脂工業所設立

鈴木油脂工業所設立

その結果昭和12年、大阪市東淀川区下新庄1-8-22に小さなバラック小屋を建て独立した。わずか一年余りで鈴木油脂工業所を立ち上げたのだ。それは、妻と二人だけの文字通りの "城" 。幸三郎33才のときのことである。

鈴木油脂工業所とはいったものの、その風体は田んぼのなかの掘ったて小屋で、ベルトワックスもそれは原始的な工程で造られていた。自宅と繋がった工場は、トタン屋根の15坪ほどの広さ。前には池があった。

リンゴ箱にセロファンを敷いて、炊いた脂を流し込んで、朝になると抜いて裁断した。裁断にはピアノ線と鉄棒を使い、裁断したものは、もう一つ小さく切り分けて包装した。昼夜を問わず仕事漬けの毎日ではあったが、若い二人には、そんな苦労も大きな喜び。時まさに軍需産業の全盛期。世の活気に押され、幸三郎たちのベルトワックス製造も波に乗っていた。特に昭和11年、2.26事件後は工業が盛んになり、二人は寝る間も惜しんで働いた。

昭和16年12月8日、大東亜戦争勃発。軍需景気はさらに活気を見せ、鈴木油脂工業所もますます忙しくなる。仲の良い二人は次々と子宝に恵まれ、冨子は4人の子供の世話をしながら夫の仕事を助ける。幸三郎も家族思いで、二人の姿は近所でも評判であった。

幸三郎戦地へ

軍需景気に浮かれていた日本の戦況は次第に悪化、昭和18年には大阪上空を空襲が襲った。

そして昭和19年、ついに幸三郎の元へも召集令状が送られてきた。幸い、幸三郎の軍隊生活は1年余りと短く外地へ行かず、昭和20年8月15日、四国は足摺岬で終戦を迎えた。幸三郎が夜中に大きな袋を持って大阪の地に降り、家族を驚かせたのはそれから半年後のことであった。

廃墟の中で仕事再会

戦地から戻った幸三郎は、戦後の荒廃したなかで、またベルトワックスを造ろうとするが、その頃は日本中から工場という工場が消えてしまっているような有様で、当然ベルトワックスの需要もなく、原料もなかった。ピッチに苛性ソーダ、魚油をブローカーから買おうとしても物不足、品不足の戦後のこと、お手上げ状態であった。

何か、他のもの、自分たちで出来るもの、ベルトワックスに代わるものはないかと幸三郎は頭を悩ます。苦心に苦心を重ねた結果、苦肉の策として生まれたのが、あり合わせの植物油脂や動物油脂に粘土を混ぜ苛性ソーダで鹸化させた「粘土石鹸(洗濯石鹸)」。粘土の摩擦で汚れが落ちるのが評判となり、戦後のヤミ市で、これがどぶように売れ、20‐22年頃までこの粘土石鹸が鈴木油脂工業所の看板となった。

その頃、工場の周り、下新庄辺りは、まだ田畑が多く、幸三郎は粘土石鹸を近所の農家で米や野菜と変えてもらっては、子供たちに食べさせた。粘土石鹸は幸三郎の事業と戦後の食糧危機の両方を救った。

新生ベルトワックス誕生

昭和22年頃になると大阪でも少しずつバラックの工場が建ち始め、ベルトワックスがまた必要な時代が到来。幸三郎のベルトワックス造りが始まった。戦後の復興も始まり、本格的な生産に乗り出そうとするが、戦争の傷跡は深く原料となるものが未だ揃わない。

幸三郎は何とか時代に合った製品づくりができないものかという思いに駆られ、研究を始める。原料不足は数年続くのであるが、それでも何とかしなくてはならないと切望し続けた。考え、それをカタチにする一連の行動に長けた幸三郎の本領発揮のとき。

そうした24年頃、中国は魯迅から精製された松ヤニが入ってくるようになったのだ。幸三郎はこんなにきれいな松ヤニがゆにゅうされるようになったのだから、これを使って透明なベルトワックスができないかと考えた。これまでのベルトワックスは松の根(ピッチ)に苛性ソーダ、植物油、魚油を混ぜるというもので、夏は溶けやすく、冬はコチコチに固まり扱いにくく、また、臭いも相当きつかった。常に進歩を求める幸三郎は研究を重ねるうち、透き通った羊羹のようなワックスにたどりついたのである。松の根っこから取るピッチでではなく、松の幹から取ったきれいな透明の松ヤニに牛脂と苛性ソーダを鹸化させることで、上質のワックスが造れることを発見したのだ。

ベルトワックスといえばピッチを使った真っ黒いものという常識を打ち破る、見栄えも臭いも違う、はるかに精度の高い、近代的なこの透明ベルトワックスで鈴木油脂工業は蘇り、一躍檜舞台に躍り出たのである。全国から注文が殺到したが、依然として原料不足は続き、幸三郎の何とかしたいという思いが、全国に20社くらいあった町工場に声をかけた設立『日本ベルトワックス工業会』となった。そして、幸三郎は初代会長となり、組合の声を結集して原料を供給してもらおうと、通産省に陳情に出かけたりもした。

その頃からの鈴木油脂の原料の供給先は明星商会、安土商店、播磨化成、荒川林産、瑞穂商店、喜多組商事などがあり、現在も鈴木油脂とお取り引きいただいている。また、主なベルトワックスの納入先には中正商店(現 中正機械金属株式会社)、北野商店、勝山商会(現 カツヤマキカイ株式会社)、大阪鯨レーシング、村上ベルト商会、東京の田中ベルト(現 田中ベルト株式会社)などがあり、多くのお得意さまに幸三郎は絶大な信用を得ていた。

再生期 昭和24年~昭和年37

鈴木油脂工業株式会社設立

社長メッセージ

昭和24年11月1日、鈴木油脂工業所は法人組織に改め、資本金100万円で株式会社を設立した。その頃、東淀川に株式会社は30社ほどしかなく、この法人化は幸三郎にはとっても誇らしいことであった。

そんな時代だから、電話をつけるのも大騒ぎ。2キロくらい先の先の会社から電話線をひかせてもらうという大工事で、当時のお金で20万円ほどかかった。

時代は戦後の生産ブームへと向かうが、原料不足は少しも改善されず、闇ルートで仕入れたりと生みの苦しみを味わっていた。

鈴木油脂工業株式会社となったものの、従業員も社長以下3名。ひとつ、ひとつ手作業のベルトワックス造りは変わらなかった。全国ベルトワックスメーカーの組合の会長となった幸三郎は通産省と接し、原料の確保に奔走する日々を送る。

産業革命・ベルトワックスにピンチ

社長メッセージ

昭和25年になって朝鮮動乱が始まった。軍需景気で産業が活気づくと同時に、新しい機械がどんどん導入されるようになった。まさに、産業革命である。ところが動乱で工場が乱立すると、それに反比例してベルトワックスの需要は少なくなっていった。そして、その時は足音を忍ばせてやってきた。町中にベルトワックスを必要としない機械が溢れ出したのだ。

想像もできないほどの急降下で、ベルトワックス産業は斜陽の道をたどることになる。産業界では機械にベルトを使うことすらなくなりはじめ、ベルトワックスを塗ること自体が不要になってしまったのだ。このベルトを使わずに伝導する機械がVプーリーといわれるもので、時代はVベルトが主流となっていった。

幸三郎は、そのVベルトでもワックスは必要だと直感し、Vスプレーワックスを開発。新製品として新たなベルトワックスの需要を切り開いた。幸三郎には化学の知識はなかったが、それでも知恵を絞って果敢に挑戦。ワックスの粘着性を活かして、ハエ取り紙をつくったこともある。

その頃、長男.桂祐(現.会長)は日本大学経済学部3年生。幸三郎は息子に鈴木油脂の将来を想い「後は継がなくてもいい。自分の道を進むよう」進言し、桂祐も別の会社へ行く気になっていたという。

幸三郎倒れる 桂裕大阪へ

社長メッセージ

昭和32年、卒業間近な桂祐の元へ「父倒れる」の知らせが入った。幸三郎が肋膜になったのだ。幸い、幸三郎の病気は4ヶ月くらいの入院ですんだが、思いもかけない事態は桂祐に「親父が倒れたのだから仕方がない」「親父とおふくろがつくった会社を潰すわけにはいかない」と思わせることとなり、卒業と同時に大阪に戻った。学校の休みの度に手伝っていた仕事が、桂祐の一生の仕事となったのだ。そのときから桂祐は、パートの従業員と共に朝から晩まで油だらけになって働く。1日2トン釜で多いときで3回くらい炊いていたという。この桂祐の働きがあってか、「製造は桂祐に任せた」という気になったのか、幸三郎は気持ちを楽にし、『生長の家』の発展のために全力投球するようになった。

斜陽化したベルトワックス産業は坂道をころげるように、次第に細く、細くなっていく。鈴木油脂にも暗雲の雲が立ちこめる。次第にベルトワックスの注文は少なくなり、当時3人ばかりいたパートの方に、朝になると「今日は仕事がないので帰ってもらっていいですよ」という日が多くなり、若い桂祐は心を悩ます。

何かと理由をつけては『生長の家』の活動に出かける幸三郎に、ある日桂祐は思い切ってこう言った。「仕事がこんな状態なんだから、もう少し会社のことを考えてもらえないか」と。

そのとき幸三郎は「うるさくいうな。わかってる。これは、わしの道楽や。こうやっていろいろ社会のお役に立っていることが、天の倉に徳を積むことなんや」と答えたという。桂祐、孤軍奮闘の日々が続く。

躍動期 昭和38年~昭和48年

兄弟で本格化学会社をめざして

社長メッセージ

ベルトワックス産業にとって、どん底の時代をそれでも何とか持ちこたえていたのが昭和38年。そして、昭和39年の春になって、弟の隆夫(現・社長)が大阪経済大学を卒業することになった。社長に代わって会社を切り盛りしていた佳祐が「鈴木油脂を立派な化学の会社にしたい」と切望していた、その時、弟が「大学卒業したら一緒に仕事してもいいぞ」と申し出て、一筋の明かりを見い出した思いがしたという。

当時の鈴木油脂は低迷状態で、キツイ、キタナイ、キケンの3つの悪条件をかなり立派に揃えていた。労働力は欲しくても集まるはずがなく、若い人材など無縁の職場環境であった。しかし、化学の会社に脱皮したいと願う兄の意思は強く、弟は「二人で、その夢を実現してみるのも悪くない。これも親孝行」と言い、父が築き、兄が動かす会社への就職を決断する。そして、商売の仕方も分からないまま、現場と営業の両輪をフル回転させ、いきなり走り出した。

午前中は現場の仕事をこなし、午後はトラックに靴とネクタイを積み込んで配達に。途中、ここぞと思う会社をみつけたら、素早く着替えて営業に飛び込む日々が続いた。

二人の力であみだしたピンク洗剤

兄と弟は7つ違い。手探りではあるが、本気で取り組む毎日だった。その一方で、ベルトワックスに代わるものを求めつづけた。時同じくしてパーライト洗剤が世に現れ、「簡単に作れる手洗い石けん。これを鈴木油脂でも作ろう」ということになった。

パーライト洗剤は真珠岩に高温で発砲させた砂状のものを混ぜると、うまい具合に染み込んでいき、それで手を洗うと汚れが落ちるというもので、技術力に乏しい二人は、これなら出来ると思ったそうだ。この通称、ピンク洗剤は、あまりいい出来ではなかったがベルトワックスのルートに乗せることも出来たし、意外と人気があった。そして、何よりも二人の共同作業が実った喜びは大きく、工具屋さんへの売り込みにも俄然力が入る。若い二人は実績をあげることだけを考えて、突っ走った。

その結果、13ヵ所くらいの問屋で、その出先の全てが在庫の承諾をしてくれ、なかには1回に1000個・270万円くらいの注文をくれるところもあって売り上げは一気に200万円に達する程になった。

ベルトワックスでは、どんなに頑張っても月120万円が限界だったので、この手洗い洗剤で工場は活気づき、パートやアルバイトを雇うようになった。41年に製造・販売したこのピンク洗剤が、様々な業務用洗剤を製造するきっかけをつくり、この頃の取り引き先が今日まで綿々と続いている。

仕事が軌道に乗り出すと、桂祐は営業、隆夫は現場と責任の分担をしたりと事業家らしくなってくる。この頃から桂祐は、化学の知識を得たいと大阪府工業試験所に勉強に通うようになった。

幸三郎の死

社長メッセージ

幸三郎は化学知識のない二人の仕事に何とか力添えしてやらねばと感じ、上新庄にもつ300坪の土地に現金収入源となる公衆浴場を開設した。これは昭和45年頃のことで、すぐ近くに団地が建設されたが風呂がなく、住民が困っているのをみかねたためでもあった。上新庄の『幸福温泉』は地域住民の憩いの場となり、鈴木油脂もそのお陰で潤うこととなった。

一方、ピンク洗剤もお得意様の力強い引き立てにより順調な生産を続けられるようになっていた。幸三郎は桂祐、隆夫の協力体制に安心したのか、これまで以上に社会のために尽くすようになり、人の役に立つこと、人に喜ばれることを生きがいとして、企業では遂げられなかったその思いの全てを『生長の家』に捧げ、大幹部となっていった。しかし、この頃から幸三郎の体調は思わしくなく、48年にはついに帰らぬ人となった。

若い兄弟がここまでやってこられたのは、幸三郎の誠実な仕事ぶりによって得たお客様の支えによるところが多い。戦後20社ほどあったベルトワックスメーカーも現在ではたった2社となり、鈴木油脂が独占的に全国の需要をまかなう形となって、幸三郎が起した事業は今もなお脈々と息づいている。

新社長誕生

昭和48年、桂祐は取締役社長に就任。専務となった隆夫と共に化学の会社へ、ますます闘志を燃やす。世は神武景気とか大和景気とかいわれ、日本経済はエコノミックアニマルと称されるほど猛進を続け、化学工業は鉄鋼業と共に、日本経済を大発展へと導いていたが、この頃の鈴木油脂は、まだバラックのような工場に社長と専務の他、数人のパート社員がいるだけで、名称は化学に類する業種でありながら科学知識者も経営基盤もないちっぽけな町工場で前途は暗かった。

飛躍期 昭和49年~

救世主・松尾さん現る

社長メッセージ

そんなパニックの前後に松尾光邦さんは、ふらりと鈴木油脂にやってきては洗剤の製造方法や化学の話をしては帰っていった。松尾さんは摂津油脂の研究室長を長く勤められた方で、定年退職された後は体も弱かったのでブラブラしておられたようだ。

そして「鈴木油脂は若い科学の出来る人間を採用して化学メーカーらしく育て上げねば...。せっかく先代がいいお得意さんをつくって30年近くもなる会社なんだから...。私に出来ることは手伝ってやりたい」と言われた。

松尾さんは若い頃、通産省工業技術院大阪工業技術試験所(大工試)に勤務しておられた関係から 当時大工試の無機材料質の室長をしておられた同姓の松尾寛二さんと親しくしておられた。そこで、毎年卒論のために研修にきている大学生を鈴木油脂にお世話して欲しいとお願いしてくださった。これは鈴木油脂にとって本当に有り難いことであった。

新卒化学者採用

社長メッセージ

50年、技術者第1号として応用化学部卒業の久保田正平(現 エンジニアリングマネージャ)が、51年には水口正昭(現 研究開発部部長)、52年には仲村芳夫(現 研究開発部副部長)を鈴木油脂は迎えることになった。3人は大工試で松尾さんの指導を受けており鈴木油脂に希望を見い出してやってきた。3人の若い化学者は松尾さんのアドバイスを受けながら、研究室もない鈴木油脂で研究開発と製造を兼用しながら日夜仕事に精出した。この3人が入社から今日まで鈴木油脂の商品開発と製品生産の基礎を築いた。

洗剤『サラサ』の製造も順調で、52年松尾さんが開発したクリーム洗剤『エルグ』も軌道に乗り始めていた。

アメリカで売れている商品をリサーチして車や家具の艶出しワックスを造ってみようということになり、松尾さんの指導で『艶だしワックス』も出来あがった。この頃、一世を風靡した"花の応援団"のラベルを貼った製品は『シンボルとなりキャラクター同様、ヒット街道をばく進した。

本社炎上

社長メッセージ

その昭和54年4月25日、当社東淀川区下新庄1丁目8番の本社工場から火災が発生した。石油原料を溶解していた時のことである。直火で原料を温めているちょっとしたスキに火花がスプレーに引火したのである。瞬く間に工場は火の海となり炎は舞い上がり本社をつつんだ。その日は全鉄道のストライキと集金日が重なっていて社長(現会長)は集金に、専務(現社長)は出張に出ていた。

社長が現場に着いた時には既に全焼。すぐさま消防所長の所へ頭を下げに行ったと言う。そうしたら「今日は風もなく天の助けだ」と言われたそうだ。理由は、その前日まで台風が来ていたからだ。油脂工場でありながらそれほど類焼がなかったのは、まさに天の助け。若い社員の懸命の働きで工場は速やかに復興に立ち上り、お得意様、仕入先などの力強いお見舞いと信頼をいただいて6日めには生産を一部再開することができた。関係各位の温かいお気持ちに報いるためにも二度とこのような不祥事をおこすことのないよう全社をあげて誓い合った。

現在の東淀川区井高野2丁目1番37号は先代が東淀川工業会で役を共にしていた仲間の会社社長の紹介を受け、当時の太陽鉄工株式会社常務の北浦慎三氏が「すぐにでもお使いください」と即決いただいて借りることができたもの。そこは2棟倉庫の1棟で100坪ほどのスレート引きだった。当座はドラム缶に原料を入れてホモミキサーで製品を造り、お得意さまの注文を消化した。ベルトワックスは東京の武 田油脂工業(株)で生産してもらいながら順次体制を整えていった。工場を中二階にして、化学実験室を当社始まって以来設けたことで、研究者たちから大変よろこばれた。

あの日を振り返ってみると...

1.嘘のように無風であった。

2.30坪の工場内に20本の油の入ったドラム缶がありながら大惨事を免れた。

3.当社の若い社員が再建のため想像を絶する力を発揮した。

4.お得意さまが先々の注文をくださり、仕入先は無理を承知で当方の急に添った原料手配をしてくださった。

5.消防から同じ場所での生産再開を止められたとき素早く再開の場所を与えられた。

復興にはその他、数々の奇跡的な出来事があり全てのことを先代鈴木幸三郎が導いてくれたような気がしてならない。この時より「住吉大社」を御祭りして朝夕感謝を捧げるように なった。

雲仙に社員旅行

社長メッセージ

井高野工場も軌道に乗り始めた55年7月、社員の慰労を兼ねて雲仙へ2泊3日の社員旅行に出かけた。マイクロバスを手配して、総勢25名は福岡、長崎と楽しい旅を続けた。最終日、社員の一人が近辺の大きな案内板を指して「地図の真ん中に『生長の家』のマークがあります」といった。先代の頃から今も続けている下新庄の『生長の家』集会道場のようなものかと思ったが運転手が「このすぐ近くに『生長の家』の総本山があるんです」と伝えたので、急遽入場し神殿で当社の社員だけで神秘的な参拝をさせてもらった。

先代が熱心な信仰の対象であった『生長に家』の総本山へ、全くの偶然とはいえ参拝することができたのも鈴木油脂の永遠の繁栄を祈念して導かれたような気がしたものだ。

感謝の祈り始まる

社長メッセージ

昭和56年末にもう1棟倉庫が空いていたので借りないかいう話があり、まだ1年しか経っていなかったが工場が手狭になりはじめていたので57年早々に借り受け、神棚も新たに設け本社事務所兼倉庫とした。と同時に下新庄2丁目にあったサラサ工場も井高野に移し、生産の向上を図ることになった。この事務所とサラサの生産設備が一同に集中したのを機に毎月1日の朝は神殿に集まり感謝祭を行い、『生長の家』の思想を鈴木油脂の経営理念に取り入れることになった。それ以後は、①会議の時には生命の実想を輪読してから始める②感謝祭には必ず『生長の家』の真理の言葉を読む③宇治の『生長の家』社員研修会には逐次全員参加し真理を勉強する④2ヶ月に一回『生長の家』の講習会をする(現在は休止中)⑤献資(神に資金を献ずる)をするなどの行事を行うようになった。

マイクロカプセル工場完成

59年頃の鈴木油脂は借り倉庫(現在の井高野倉庫兼工場全ては当社所有物件である)であり、井高野工場周辺住民から苦情も出ていたので、どこか化学工場地で危険物も扱える場所はないかと探していたが工場団地の抽選にはなかなか当たらなかった。ところが59年、兵庫県西宮浜で募集があり、それも兵庫県の事業者優先であったが運良く当選。初めての土地の購入と工場建設を同時に進める大事業を行くうことになった。

60年、鈴木油脂では大工研の中原先生を迎えて月に1度研究開発会議を行っていた。その席で中原先生より「鈴木油脂でマイクロカプセルを造ってみませんか?」という話が持ち出された。マイクロカプセルは中原先生の研究で、そのプロジェクトに当社研究室の水口が入っていたこともあっての願ってもない話で、研究開発チームの飛躍と、研究課題づくりのためにも「やってみよう!」ということになった

カプセル事業部立ち上がり当初は次々と特許を出し、新たな研究開発で国からは補助金も出た。大阪府や通産省からは特別融資が受けられるなど工場を建ててからはベンチャー企業として外部からも認定され、社内も活気に満ちていた。

未来を築く研究開発と生産メーカー

社長メッセージ

無機質マイクロカプセル工場は小さいなりにも充実していた。水口、林らが主体となって若い工業高校卒業者4‐5人が研究開発型生産体制をとり、将来性のある素材の開発に夢をふくらませた。無機質カプセルでは世界初とあって注目され、大手の化学メーカーからサンプルの提供依頼が一時殺到し、さばききれないこともあった。一流化粧品メーカーからの本格的な引き合いに研究室も対応に大忙しとなった。そのいずれもが「未知の素材として開発に使いたい」「製品の付加価値を上げるために使いたい」という依頼であり、『ゴットボール』(当社製マイクロカプセルの商品名)には無限の可能性が秘められていることが証明された。

松尾さんはその時75歳を過ぎていたが、それでもなお発想は冴え渡っていたが、86歳で帰らぬ人となった。毎年命日には久保田、水口、仲村の3人は墓前で松尾さんを偲んでいる。

化成品工場の建設

社長メッセージ

平成4年にはアロエローヤル手洗い洗剤も井高野工場では生産が間に合わなくなった。いよいよ西宮の空き地に化成品生産のための新工場を建設する時期がきたようだ。62年のマイクロカプセル工場を100坪としておいたのが幸いして、新たな工場は250坪と広くゆとりのある仕事場と研究室をつくることができた。

本格的な工場用手洗い洗剤の他、様々な業務用洗浄剤の生産が始まり生産体制は充実した。5階にある研究開発室では当社がメーカーとして21世紀に誇れる優秀な研究社員たち13名が豊かな発想力とアイディアでユーザーのニーズに応える製品づくりに励んでいる。

心に大きな夢マークの帆を上げて

平成8年はトップ交代。社長が『生長の家』大阪ブロックの会頭を引き受けたのを機に専務が社長に就任した。体育会で鍛えた精神と後輩を見る眼差しの優しさが新社長の魅力。心機一転して開発に営業に取り組もうと真っ白な帆を揚げ船出した。女性の営業社員を大勢送り出すなど果敢な挑戦で各方面から熱い視線を注がれる。

平成10年‐11年は社内総点検の年。マイナス成長の時は利益を上げることに躍起になるよりこれまでどおり堅実経営を、そして全員がコスト意識をもって業務に当たろうと誓い合う。不況を嘆くよりも幸せは足元にあること、自ら創り出すものであることを確認しあって鈴木油脂は真っ直ぐ前に向かって今日も漕ぎ出す。

会社概要
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鈴木油脂工業の会社概要です。
沿革
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創立60周年を迎えた鈴木油脂工業の沿革です。
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50年のあゆみ
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